優しすぎるのはいつも罪
「しまった。迷子になったぞ」
四年生の竹谷八左ヱ門は、左手の虫取り網を肩にあてた。
生物委員になった八左ヱ門は今日も今日とて生物小屋から脱走した生物達を捕獲する作業に追われていた。
虫取り網と虫かごを両手に奮戦すること4時間で、なんとか残るは蝶一匹のみになったのだが。
その最後の一匹がどうも見つからない。
人体に軽い害を与える毒をもった蝶なので被害がでる前に捕まえたいところであったので、つい山の奥の奥まで入ってしまった。
帰るためにところどころにつけていたはずの印も見つけられないほど遠くに歩いてきてしまったようだ。
こまったぞ。
途方に暮れた八左ヱ門は、しかし自分が忍びの卵であることを思い出し、狼煙を上げればいいのだと思い浮かんだ。
よし、と、懐に手を突っ込んで気付く事実。
「げっ・・・」
八左ヱ門は日常的に火種を持ち歩く性質ではなかった。
つまり、狼煙に必要な道具を持ち合わせていなかったのである。
作戦は実行に起こす前に失敗に終わった。
なら、どうすればいいのだろうか。
「うーん・・・・・」
顔をしかめ唸り声を上げた八左ヱ門は、ふと頭上を眺め、木に上れば周りを見渡せるのではないかと考えた。
今のところ思いつく手はそれぐらい。
なら、やってみるべきだろう。
そうと決めたら八左ヱ門の行動は早い。
両手を使うために、虫取り網とかごは背中に回し、木の幹を足蹴にする。
手ごろな木の枝に捕まると、腹筋を駆使して体を持ち上げてまた登る。
折れる心配のない太い枝を移動の最中に判断しながら、どんどん上へ上へあがってゆく。
そしてとうとう、木の限界に辿り着いたのだが。
そこでも視界は悪いままであった。
見事に剪定されている木々はどれも同じ高さであったのだ。
またもや作戦失敗。
八左ヱ門はがっくりとうな垂れた。
「どうすりゃいいんだよ・・・」
同じ四年ろ組の友人、不破雷蔵と鉢屋三郎が、帰ってこない八左ヱ門の異変に気付いて探しに来てくれることを祈るしかないのだろうか。
運の悪いことに、肝心の生物委員会の委員長は長期実習に出ているのだから・・・。
大きくため息をついた八左ヱ門は、ふと、森では聞きなれない音を耳に拾った。
かすかに聞こえるその音は、笛の音のようであった。
とても澄んだ音色だった。
呆然と聞きほれていた八左ヱ門は、ハッと我に帰った。
笛の音がするということは、人がいるということだ。
まさか熊がこんなにうまく笛を吹くわけはないだろう。
出会えた人が忍術学園の存在を知らない村人だったとしても、とにかく麓にたどり着くことさえできれば自分ひとりの力で学園に帰れる。
兎にも角にも、蝶を捕まえるのは学園に戻り、応援を呼んだ後に回すことにして、八左ヱ門は笛の音のするほうへ足を動かした。
本当に、何て美しい笛の音なのだろう。
『上手い』という表現よりもさらに卓越したものだと、楽を嗜んでいない八左ヱ門にも分かるほどのものであった。
ふいに、八左ヱ門の脳裏に疑問がわきあがった。
その笛の奏でている曲を、聞いたことのある。
八左ヱ門はそう感じた。
記憶の中のそれは笛の音ではなく誰かの歌であったけれども。
あれは誰が歌っていたものだっただろうか。
思い返しながら、ついに笛の音の元に辿り着いた。
「ん?」
笛の音がやみ、変わりに呟き声が聞こえた。
八左ヱ門は驚いてほとんど反射的に身構えた。
相手を判断して声をかけるつもりであったため、八左ヱ門は完全に気配をたって近付いたつもりであったのだ。
警戒するべきか、思いあぐねる八左ヱ門と違い、笛の音の主はのんびりとした声を上げた。
「そんなに身構えるなよ。出てきな。俺の直感だとそこにいるのは次屋か八左ヱ門なんだが・・・」
その声でやっと分かった。
ずばり八左ヱ門の名を言い当てた笛の主は・・・。
「先輩!」
五年ろ組 だったのだ。
草むらから飛び出した八左ヱ門は、木の根に腰をおろし、笑っているを見つけた。
その手に笛が握られている。
であったと理解して、思い出した。
聴覚が優れているは人の声音を出す達人であるが、転じて楽の名士でもあるのだ。
楽器を直すバイトをしているという話もちらりと聞いたことがある。
音、楽器を理解していないと直すことなどできないのだから、鳴らすのが上手なのは当たり前だ。
そうだ。
先ほどのあの笛の曲は、とよく一緒に行動している五年ろ組の七松小平太が鼻歌をしていた曲だ。
道理で聞いたことがあるわけだ。
小平太の鼻歌は50メートル離れていても聞こえてくるほどの大きな鼻歌なのだから。
「どうしてこんなところにいるんですか?」
八左ヱ門が問うと、は笛を手のひらでくるりとまわした。
「この笛の調整にでていたんだ。・・・なんだその目は。委員会活動をサボっていたわけじゃないぞ。学びの一環だとか学園長に命令されてしてるんだ。少々複雑な調整だったから、雑音がしないところでしてたんだよ」
で、八左ヱ門は?
聞き返されて、八左ヱ門はへらりと笑って答えた。
「逃げた蝶を追いかけていて、迷子になりました」
「なぬ。蝶だと」
が眉をそばめた。
そして、背中に手を回し、小さな布袋を取り出した。
「やっぱり生物委員のだったのか」
差し出されるままに袋を受け取り、中を覗いた八左ヱ門は歓喜の声を上げた。
「捕まえてくださったんですね」
驚きにを見つめれば、彼は腕を組んで憤慨していた。
「笛を吹いていたらひらひら飛んできたんだ。誰かの恨みでも買ってしまったのかと思って もやもや考えてしまったぞ」
「・・ごめんなさい」
八左ヱ門が素直に謝ると、はパッと怒りを笑みに変えて八左ヱ門の頭を撫でた。
「見つけたのが一般村人じゃなくて俺でよかったよ。被害はでていないぞ」
被害。
その言葉に、八左ヱ門は即座に自分の失態に気付いた。
よかった?
いいや、よくない。
いいわけがない。
この蝶の毒の効果は、
呼吸困難。
まだ一年生だった冬の日。
血まみれの姿で保健室に運ばれてきたを、八左ヱ門は実際にその目に見た数少ない一人だ。
顔面蒼白で、息もしているのか定かではない切迫した状態であった。
すぐに保健室は立ち入り禁止となり、保健委員長以外の全生徒は委員会活動の時間と銘打たれ各委員長に勝手な行動をしないように監視をされたあの日。
あの日を境に、は日常において全くの健康ではなくなってしまった。
呼吸器系に負った傷は一生治ることのなく、長い運動は死に関わる。
この蝶の毒が少しもに悪い影響を及ぼさなかったわけがない。
「・・・なーんて顔してんの」
八左ヱ門の頬にの手が触れた。
の顔が、八左ヱ門と同じ高さにあった。
いつの間にか立ち上がっていたは、穏やかな水色の瞳で、八左ヱ門を見つめていた。
「ほら。大丈夫だろ」
笑みに偽りはなかった。
頬に添えられた手も、暖かい。
「・・・本当ですか?」
「ほんとほんと」
頬を撫でる手が離れる。
名残惜しいなと目が追えば、その手は笛へと辿り着いた。
「新しい曲を作ったんだが、学園に戻る前に聞いてみるか? 今なら初聞きの座を手に入れられるぞ」
笑っている。
大丈夫。笑っている。
そう思ってしまう自分が、八左ヱ門はとても嫌になった。
優しさをもらっていることは十分承知なのに、分かっているのに。
「是非、聞かせてください」
すがってしまうのだ。
そして、はそれを無償に許すのだ。
静寂の中、静かに始まった笛の音を聞きながら、八左ヱ門は目を閉じたのだった。
<END>
初お目見えの八左ヱ門。
彼の1年生捏造を先に書こうと思いペンを握ったとたん降臨したので即効かいてみました。
ED出演おめでとう記念。