息をするだけで体が芯から凍るほどの寒さだった。
雪は絶えず降り積もり、寺から村へ下る道を完璧に閉ざしてしまったほどだ。
壮年の男は甕の水を桶に移しながら、柄杓を持つ反対の手で腰をとんとん叩いた。
長いこと前かがみをしていたから体ががちがちにこっている。
甕の蓋を閉めて柄杓を置くついでに背中をゆっくり伸ばすと、見事にばきばきと鳴った。
「おお、こりゃ相当だな」
男がくうと目を閉じた時だ。
廊下をどたばたと走る音が聞こえて、開いたままの扉から少年の大声が聞こえてきた。
「和尚ー!」
この寺で和尚と呼ばれるのは壮年の男だけだ。
声の方を見やると、子供の看病を交代しているはずの久米平次が焦り顔で立っていた。
「どうした平次」
「意識が戻った!」
誰の?とは聞くまでもなく、平次が雪の中から拾ってきた男の子以外当てはまる人物はいない。
和尚は冷水のたっぷり入った桶を平次に押しやり、縁側を流れるように走った。
「名前は分かったか!」
後ろを追いかける平次に問いかけると、平次は歯切れ悪く答えた。
「その・・・意識が戻ったっても、朦朧としてるみたいで、ずっと譫言のように呼ぶんだ」
「呼ぶ?」
「『兄上』って」
和尚が子供を寝かせている座敷にたどり着くと、子供はたしかに繰り返し「兄上」と繰り返し呼び続けていた。
しかし、その視界は定まっておらず熱にうなされて自身がどういう状態なのかも分かっていないように見受けられた。
和尚が呼びかけても、目の前で手を振ってみても、反応が返ってこなかったのである。
「平次。雪の中から助け出したとき周りにはこの子以外誰もいなかったのだろう?」
「ああ。その子だけ・・・・」
と、平次はその時を思い出すように目を閉じた。
視界を奪う猛烈な吹雪。
膝まで埋まるほどの雪。
音を飲み込んだ突風。
五感が正常に働かないあの状況で、見通しなどなかったと、こうなってははっきりと断言できずに、平次はうつむいた。
「でも、もしかしたら・・・」
「ああ、お前を責めたつもりはないんだ。あの雪じゃあ仕方がない」
和尚は平次の頭をぽんぽんと撫でた。
「見つけたのは、大楠の近くだったか?」
「うん。大楠から西へ少し進んだ先にある原っぱ・・・・って。和尚?」
立ち上がった気配を感じて目を開けた平次は和尚の視線の先に気づいて慌てて袖を引っ張った。
「和尚、探しに行くのなら俺がいく!」
「なに言ってる。お前の仕事はこの子の看病だろ。忍術学園の保健委員」
「でも、」
「でももへちまもない」
和尚は片膝をあげた平次の頭をわし掴み、力にものを言わせて座らせた。
「だいたい、この子が兄上とはぐれたのはいつなのかも分かってない。お前がこの子を見つけたときだったのかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
いま、分かっているのは平次が助けた子に兄がいる、と言うことだけなのだから。
それでも、平次は苦い気持ちでいっぱいだった。
和尚は平次の頭を乱暴に撫でると言った。
「って、格好いいこと言っておきながら、ただ単に、お前がでていくとさらに天候が悪化するのが目に見えているからってだけなんだがな!」
和尚はかかと笑うと、吹雪の中に出ていったのだった。
そこまで言われては平次はどうすることもできず、はらはらと玄関の方角を眺めておくことしかできない。
「兄上、兄上・・・」
切ない声とともに小さな手を布団の中からのばされて、平次は子供の手を握り返すことしかできなかった。
<つづく>